「典故300則」その2892013年07月07日 07:55


 物事を支配することを“牛耳る:ぎゅうじる”という。“豚汁”や“狸汁”ではなく、何

故“牛汁”なのか、今日はその疑問に答える。

 典故300則その289:执牛耳 zhi niu er

 春秋時代、諸侯が団結して事にあたる時、最初に一つの儀式を行った。彼らは

牛の耳を切って、手で牛の血を拭い、口のまわりに塗り、これを“歃血:shaxue”

と呼んだ。

 その後、牛の耳を綺麗な飾りの付いた皿に載せ、主宰者はこの事によって諸侯

を掌握し、これこそが“执牛耳”である。

 以来、“执牛耳”は、ある事柄の主宰者を指すようになった。

「典故300則」その2902013年07月08日 06:47


 古代中国の郡県制について。中央政権のトップは皇帝であり、国家はいくつ

かの州から成り、州のトップは州牧と呼ばれた。 また、州の中にはいくつかの

郡があり、郡のトップを太守と言った。郡は、さらに幾つかの県に分かれており、

県のトップを県令と呼んだ。

 典故300則その290:只许州官放火,不许百姓点灯
 zhi xu zhou guan fang huo bu xu bai xing dian deng

 北宋時代、田登という州の太守がいた。 彼の名前に“登”の字があったので

命令を下し、庶民が話をする時、“登”の字と同じ音の字を使うと刑に処せられ

ることになった。

 正月が来ると、風習として三日間花火を打ち上げ、三日間飾り提灯を点け祝

日を祝うよう毎年州府が告示を張り出し、庶民に飾り灯籠を見に来させた。 田

太守が来てからは難しくなり(登と灯のピンインは共にdeng) 役人は告示を出

しにくくなって、あれこれ思案したあげく 告示を“此処では例年通り三日間放火

せよ。”と書いた。 余所の土地の人は 驚き官府の者が本当に三日間放火する

と思い、驚いて我先に(争先恐后)逃げ出した。

 この地の民は、もとより田登の専横に不満で、彼を皮肉混じりに風刺し“此処

では州の長官は放火しても許されるが、庶民は明かりを点すことさえ 許されな

い。” この言葉は、後に役人の乱行によって 庶民の正当な権利を制限される

喩えとなった。

13年目の外壁工事2013年07月09日 21:18

家の養生シートと家庭菜園(トマト)の養生シート

 今日、家の外壁の塗装と屋根の葺き替え工事が始まった。大震災で大分痛め
つけられていたが、その後も余震が続いていたので着工のタイミングを図りかね
ていたものだ。 先日、この家を建てた牛久の国分建設さんから改修を提案され
たもので、そろそろ良い時期かと思い、お願いすることにした。

 この家は13年前の12月に建てたもので、私の終の棲家となるものである。私
の歳から(経済的にも)考えて、これが最後の改修工事となるだろう。

 午後1時、暑い最中(さなか)に始まった足場の組み立ては、たった二人の若い
職人さんが、機材の搬入から始まり 鋼管組立からシート掛けまで、5時間足らず
で組み上げてしまった。

 カミさんは、職人さんたちが熱中症にならぬようにと、何度も水分補給に気を配
っていた。 私も彼等と暑さを共にしてみようと3時半から1時間ほどウオーキング
に出た。家を出て、龍ケ岡郵便局の前を通り済生会病院を経て、たつのこ山に登
る。 帰りはアリーナを回って山新、ランドロームを通って家に戻る。僅か1時間程
のウォーキングであったが全身汗ビッショリになっていた。

 シャワーを浴びて外に出てみると、足場はほぼ完成していた。完成を待って冷え
た麦茶とアイスクリームを囲みながら彼等の話を聞いた。彼等は足場専門の仕事
をしており 取手を拠点として千葉北部から茨城南部を中心に活動しているが、時
には町田の方まで出かけて行くこともあるという。

 無事一仕事終えて、安堵の表情を浮かべながらきちんとした返事を返す。 猛暑
の中、額に汗して働く二人の好青年を見て、今日はなぜか清々しい気分になる事
ができました。

 PS.昨年7月から始めた「典故300則」の紹介も、いよいよカウントダウンとなり
ました。残り10編、最後の追い込みに入ります。