「典故300則」その291 ― 2013年07月10日 07:46

今日の主人公は秦の名将“樗里子:ちょりし”。中国戦国時代(紀元前403
~紀元前221)大小入り交じった七つの国が鎬を削っていた中、最強の国で
あった楚を藍田の戦いで打ち破り、両国の力関係を逆転した。その後始皇帝
の中国統一へと続くことになる。
典故300則その291:智囊 zhi nang
戦国時代の樗里子は秦の惠王の異母兄弟で、母親は韓国人であった。 彼
は知謀に長け弁舌にも優れ、事が起きると即応し、秦の人々は彼を“智囊”と
呼んだ。 彼は相次いで惠王、武王、昭王を助け多くの事を成した。昭王に仕
えて7年、樗里子はこの世を去った。生前彼は百年後に彼の墓は天子の宮殿
の真ん中に挟まれると予言した。
果たして漢朝が興った時、長楽宮は東に、未央宮は西に、武器庫は樗里子
の墓の正面に位置した。
当時、秦に“力则任鄙,智则樗里”という諺が有った。その意味は“力ならば
任鄙、智恵を論じるなら樗里子”である。
その後、人々は知謀に優れた人を“智囊”と呼んだ。
「典故300則」その292 ― 2013年07月11日 09:28

最近の中国の造語に“裸官:luguan”という言葉がある。直訳すれば裸の役人
ということだが、いったいどんな意味なのか。私利私欲を追わず 私財を蓄える事
を良しとせず、全てを国と民に捧げる清廉潔白な官僚。・・・ではなく、立場を悪用
し、国や民から不正に搾取した財を 家族とともに海外に移し、自分は身ひとつで
いつでも脱出できる“裸”の状態に置いている腐敗官僚のことを言う。驚いたこと
に、この“裸官”の数は、100万人を悠に超えるという。
典故300則その292:中饱 zhong bao
赵简子は春秋末期の晋の筆頭大臣である。ある時、薄疑という人が彼に“君之
国中饱”と言った。赵简子はこれを聞いて、薄疑が彼が治める地の民が富んでい
ると褒めていると思い内心喜んだが、口ではわざと問い返した。 “あなたは何が
言いたいのか?”
薄疑は答えた。“私が言いたいことは、上を見れば国庫は空であり、下を見れば
民は貧困に喘いでいるが、中にいる役人だけは富み栄えているという現実です。”
赵简子は納得し、薄疑は役人たちが国と民の間で利益を搾取している現状を改め
るよう彼に提言した。
以来 “中饱”、“中饱私囊”は財物を取り扱う人間が、その中から搾取横領し、私
することを喩える。
「典故300則」その293 ― 2013年07月12日 08:06

今日の言葉は“中山狼”、これに似た言葉に“中山路”という言葉がある。中国
各都市至るところに“中山路”と名付けられた大通りがある。勿論横浜中華街の
メインストリートにも“中山路”と名付けられている。 因みに“中山”とは辛亥革命
の指導者、孫文の号(称号)である。
典故300則その293:中山狼 zhong shan lang
その昔、东郭さんが驢馬を追って山に入った時、一匹の狼が助けを求めて走り
寄り“狩人が追いかけて来る!”と言った。 东郭さんは、その狼を書籍袋の中に
匿ってやり、狩人をやり過ごした。
狩人が立ち去ると、狼が袋から這い出て来て言った。“俺は腹が減っているんだ、
お前を食べさせろ。”东郭さんは驚いて驢馬の後ろに身を隠したが、驢馬も驚いて
逃げ出した。
この時一人の農夫が通りかかり狼に言った。“こんな小さな袋なのに、お前はどう
やって入れたのだ?もう一度入って見せてくれ。” 狼はすぐにまた袋の中に潜り込
んだ。すると農夫は鍬を振り上げ狼を叩き殺した。
“中山狼”は、今では広く、恩義を忘れ(忘恩负义)恩を仇で返す人を喩えるように
なった。
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