「典故300則」その662012年10月27日 06:58


 中国史に屡々登場する“匈奴”、紀元前4世紀頃に中央ユーラシアに興った

遊牧民族国家である。彼らの自称した民族名を中国が音訳したもので、“匈”

も“奴”もいずれも悪字である。 “匈”は胸に通じ「匈匈」は喧騒・騒乱を意味し、

、“奴”も見下した呼び方で、“匈奴”とは騒乱を起こす連中の意味である。

 中国全土を統一した秦も、この遊牧民族達には手を焼いていたようである。

 典故300則その66:儿戏 er xi

 漢の文帝の治世六年匈奴が侵攻し、刘礼、徐厉そして周亚夫の三人の将軍

は、霸上、棘门と细柳の三つの地域に別れて駐屯し、警備にあたった。ある時、

文帝が三つの地域の駐屯状況を視察に出かけ霸上と棘门では将軍自ら任務

を離れて送迎し、皇帝の馬車は長駆進んで行った。

 细柳の軍営に着くと状況は異なり、皇帝と従者達も軍規の厳守を求められた。

将軍の周亚夫は武器を帯びたまま皇帝に拱手して言った。“兵達は礼拝をいた

しません、私が皇帝に軍礼を捧げます。” 門を出ると、従者達はみな周亚夫が

敢えてこのような無礼を働いたことを訝しく思った。

 文帝は言った。“ああ!これこそ真の将軍だ!先の霸上と棘门軍は児戯のよ

うで、其将固可袭而虏也至于亚夫,可得而犯邪!”その意味は:霸上と棘门軍

は児戯のようだ。周亚夫こそ真の将軍であり、彼の细柳の軍営は誰も敢えて侵

犯したりはしないだろう。

 “儿戏”は本来子供の遊びのことだが、後に軽率な行いの喩えとしている。