国立療養所久里浜病院(その4)2005年11月05日 22:00

 彼は話し合いに応じない奥さんに対して、話し合いの
場に出向くよう生活費の振り込みを停めた。するとすぐ
に弁護士を通じて社長宛に給与差し押さえ請求が届い
た。連絡を取ろうとしても電話にも出ない。彼は、また
酒に溺れた。溺れるしかなかったのだろう。

 心配した母親から三度目の入院を要請された。二度目
の退院から二ヶ月も経ってはいなかった。引き受けてく
れた病院も前回までのように”身体は治せるが心は直せ
ない”とは言ってくれなかった。彼の衰弱は著しいもの
であった。

 一月余りで彼は退院した。多分病院側の配慮だったの
だろう。退院して20日目の深夜に彼は息を引き取った。
午前2時半頃、私の家の電話が鳴った。私には分かって
いた。思った通り母親からの訃報であった。

 平成○○年○月○○日午前2時32分、彼は○○歳の
生涯を閉じた。毎日夜遅くまで働き、家族の為を思って
必死に頑張り同期に先駆けて昇進し、多くの後輩に慕わ
れて来た結果としては、あまりにも悲しい。

 葬儀には大勢の仲間が詰めかけた。数多くの後輩社員
や協力会社の人達が別れを惜しんだ。何より哀れだった
のは、つい先日連れ合いに先立たれ、今また一人息子に
逝かれてしまったお母さんの呆然自失とした姿だった。

 私には慰めの言葉も出せなかった。こんな悲しいこと
があって良いのだろうか。親よりも先に逝ってしまうと
は、彼もさぞかし無念であったに違いない。奥さんとも
きちんと話がしたかったことだろう。

 結局、奥さんは葬儀に顔を見せなかったのだが・・・。