「典故300則」その12012年08月23日 08:47


 先日書棚に目をやると、数年前に大連で購入してきた一冊の本が目にとまった。

「典故300則」という本で、中国の子供達に「ことば」の故事来歴を伝えようというも

ので、中国語学習のためにそのうち読もうと思って、そのままになっていた。老い

先短い(?)今、一念発起して毎日一編を翻訳し、一年半余り休んでいたブログで

紹介しようと思い立った。全部で300編あるので約一年がかりとなるが、ボケ防止

の脳トレとして始めてみたいと思う。

 初日の言葉は“阿斗”、ご存知三国志の蜀漢皇帝劉備の息子で、愚昧の代名詞

となっている第二代皇帝の幼名である。以下、稚拙ながらご紹介したい。

 典故300その1:阿斗

 劉備の子、劉禅は幼名を阿斗と言った。劉備の死後、劉禅は蜀王となった。諸葛

亮の死後、蜀は魏に滅ぼされた。劉禅は投降し、洛陽に召還された。投降した君臣

が魏国の宴席に招かれ、席上、魏国の歌舞を見たが蜀の者は全く楽しめなかった。

そして蜀の歌舞に接した彼らは皆涙を流したが、劉禅はずっと笑い転げていた。

 魏の実権を握った司馬昭が、劉禅のあっけらかんとした様子を見て訪ねた。“あな

たは蜀に帰りたくないのか?” 劉禅はあっさりと答えた。“ここはとても楽しい、私は

蜀に帰りたくない。”蜀の官吏はこの話を聞いて、とても悲しんだ。

 以来、人々は愚かで覇気のない凡庸な者を喩えて“阿斗”と言う。

「典故300則」その22012年08月24日 21:43


 北宋時代(平安末期)の儒学者、宋学の提唱者で易を基礎として宇宙論を究め

象数論を開いた邵雍堯夫(しょうようぎょうふ)の逸話。

 典故300則その2:安楽宮

 北宋の邵雍(しょうよう)は哲学者で、自らを安楽先生と称していた。朝廷は

何度も官職に就くよう彼を招聘したが、彼はいつも病を理由に辞退した。彼は

隠棲している時、家の庭に花を植え柳を育て、田畑には穀物を植え付けて、

自らの労働で暮らしを立てていた。暮らしは貧しくとも、彼は充分満足してい

た。しかも自らの住まいを“安楽宮”と呼んでいた。

 以来、人々は気楽で快適な争いのない暮らしを喩えて“安楽宮”と呼んだ。

「典故300則」その32012年08月25日 08:21


 中国古来の人材登用システム“科挙”、隋の時代から20世紀初頭まで、凡そ

1300間年連綿と続けられた。今日はそこからひとつ。

 典故300則その3:鳌头

 唐宋時代、皇居前の石段の中央に一匹の大亀が彫られており、科挙の

首席合格者だけが皇帝に謁見する時、はじめて大亀の頭上に立つことが

できた。そこで科挙での首席合格者を“独占鳌头”と呼び、後に首席の者

や第一人者を喩える言葉となった。

 鳌:bie、伝説上の海に住む大きなスッポンのことだが、実は大海亀のこと

である。